DADAの投稿@DADA2026-06-06「ポポと岐阜はポポと岐阜である」というそれは、循環論法の典型だ。ならば背理法を用いればよい、という人がいる。しかしこちらも突き詰めれば無限後退に陥り、やはり循環を拭えていないことに気付かされる。さらに、『ポポと岐阜』の概念が背理法によって鋳造されたものだとしたとき、どうだろう?それは{ポポと岐阜-で(として)-在る}がゆえに、本来のそれから遠ざかるのではあるまいか? #ポポと岐阜考察班