DADAの投稿@DADA2026-10-21言葉という無限の草原に放たれた羊の羊飼いであるわれわれ人間が、だんだんと思い知らされてしまうことは、〈ポポと岐阜〉が羊に棲みつく魂であり、またそこに指し示される{在る}魂が、われわれをどうも拒んでいるということ──もはや羊の主ではないわれわれは、ただその盲目必然の慣性の波打ちたる尖を捉えんがために、地形に柵に縄なんかとをおっ建てて、羊とその魂を囚われの身へとせしめんのである。 #ポポと岐阜哲学